2009年07月20日

なるほど

届いたメルマガにこんな文章があった。

「支援」と「共闘」 細川 英雄

通勤途中で電車の吊革広告を見ていたら、
おもしろいコピーに出会った。

「支えるのではない、ともに闘う」

ある大学の広告コピーのようだが、
考えてみて「なるほど、そうだ」と気づいた。
少し前から「教える」「教えられる」という関係ではなく、
「支える」という発想が必要だということで、
「支援」という用語が頻繁に使われるようになった。
スキャフォールディング(足場掛け)などという
カタカナ語も好まれている。

しかし、よく考えてみると
「支える」ことは「支えられる」ことと対であるのだが、
問題は「支える」側は、いつも「支える」側にあることだ。
もちろん、お互い「支えられる」関係にあるのだという
理由をつけることは可能だが、
「支援」という用語には常にマジョリティとマイノリティ
あるいは強者と弱者の関係ののニュアンスが伴う。

教室では、学習者の学びを支援するのだというようなことが
しばしば話題になるが、
この「支援」こそ、何かいかがわしいものの匂いがする。
自分を安全な所において、自分の被害が及ばない範囲において、
相手に手を差し伸べるという温情的権威主義が仄見えるからだ。
「学習者がかわいそう」「学習者のために」「学習者の立場にたって」などの言説が、
こうしたパターナリズムに裏打ちされた、
まやかしと欺瞞に満ちたものであることは言うまでもない。

むしろ教室では学習者だけではなく、担当者自身も、
さまざまな問題と戦っていると考えるべきだろう。
その相手は、まさに学習者であり、
同時に教室を取り囲む、いろいろな環境であるともいえる。
だから担当者は、
さまざまな障害を乗り越えるための共闘を学習者と組むことが
要請されるだろう。
むしろ、そのことを学習者とともに考える場でなければならない。

この意味で、教室は学習者を支える場ではなく、
ともに闘う場なのだということができるだろう。
そして、
このことが教室だけの問題でないことは火を見るより明らかである。



なるほど。
そういう考え方もあるのか。
時々違和感を感じるようになっていたのは、そういうことだったのか。
posted by かっこ at 16:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/123889205

この記事へのトラックバック